あたまの休息所

第八話  2000.4.12

5月の声を聞く季節。

今年も桜が満開に飾り、あらゆる花が咲き乱れ出した季節になりました。小生が植えたチューリップが満開に咲き乱れて(パチンコの話ではないです)おります。これからの日一日と暑くなりあの夏もすぐに来る事でしょう。

これから食中毒に気をつけて、体調を整え、しっかり仕事をしましょう。

今年からのNHK大河ドラマ「葵」(徳川三代)の色々な事柄を調べております。

とりあえず第七話は、関ケ原と秀忠に付いての関係を史実を元に考えました。

第八話では、「関ヶ原の合戦」の前哨戦で西軍石田三成が大垣城での戦いを不利と判断し、平地戦に至る原因となった幾つかの要因の一つので関ヶ原決戦の前日まで続いた大津城の攻防戦を、一万五千の兵を大津に足止めした戦いを検証しましょう。


先に述べたように「関ヶ原の合戦」は本来大垣城の西軍と城攻めとなる東軍の図式であった。しかし徳川家康が大垣城での戦いを不利と見て、平地での戦いに持っていった。それが岐阜の関ヶ原で、それに至る舞台裏には徳川家康が得意とする情報戦であります。

もちろん石田三成も分かっていたはずですが、徳川家康はそれを上回る知恵者(謀略者)であったのでしょう。


福島正則を筆頭とする東軍が、岐阜城・大垣城を前にして対峙していた。徳川家康の到着を待っていたのだが、西軍石田三成も伊勢路からと北陸路からの援軍を待っていた。

そして徳川家康の到着をもって軍勢を岐阜城・大垣城に向けた。以外に岐阜城が簡単に落城してしまった。

これは石田三成にとっては大誤算であった。と言うのも援軍が到着するまで東軍の動きを止められると考えていたからである。

石田三成大阪城の毛利輝元に急ぎ援軍をと要請したのであるが、ここで思わぬ寝返りに合う。京極高次が大津城で東軍側に就き籠城したのである。一万五千の西軍が大津城を包囲して攻め込んだ。

しかしこの事で援軍がすぐにはこないので大垣城での戦いは不利とみた石田三成は関ヶ原に陣を張る事になった。

京極高次は当初から東軍に組しており、重要な時点での突然の寝返りも西軍には大打撃となる、これも家康の蝶略である。京極高次は大谷吉継と共に北陸路を進んでいたが、岐阜が決戦場となりつつあったので軍勢を急いで美濃に向けた。

しかし京極高次はそのまま大津城に入った。これが九月三日の事で、徳川家康の重臣井伊直政に宛てて親書を送り、「当大津城にて、西軍を阻止せん」と宣言する。東軍方武将としての立場を明らかにしたわけである。

京極高次の寝返りを知った三成は慌てて、ただちに毛利元康、立花宗茂以下一万五千の大軍を催して攻めさせた。大坂の淀殿は淀殿で使者を大津に遺り、おはつ(淀殿の妹、京極高次の正室)を通じて京極高次の寝返りをやめさせようとした。

京極高次はまもなく会見すべし、と要って会わずのらりくらりと四日間時間を稼いだ。

九月八日早朝、しびれを切らした西軍は一斉に攻撃をはじめた。一万五千に対して三千に過ぎなかったが、城は要害であり、充分支度を整えてあったので、爪もかからない有様だった。

あるいは攻め手の側に京極高次に対する闘志が鈍かったのかも知れない。

三成に督促されて憤慨した立花宗茂が、猛攻撃して二ノ丸まで落してしまった。本丸への大砲の弾が落下するようになると、女衆は耐えられない。九月十四日、降伏勧告もあいつぎ高野山の僧木食応其と新庄直忠が和睦開城を申し入れ八日間の籠城戦は終わった。

九月十四日降伏、つまり関ヶ原会戦の前日と言う事になる。家康は落城を知らず援軍を出そうとしたほどだが、別段責めもせずかえって「大津で大軍を食い止めたのは大功である」と言って賞め、さらに「高次がもう一日、城を守っていたなら、近江一国を与えたものを」と述懐したそうだ。

どこまで本心だったかわからない。いずれにしても、高次年来の夢を果たす機会は去った。不運と言えば不運だか゛、汗みどろになって働かないかぎり、運は向いてこないのである。

何事も努力・努力、最大働いて最小を手にする心構えが極意か!


古今東西、やはり世間を生きていくには今も昔も変わらない、努力・行動する、これかな。

以上新たな事柄につづく

参考・引用(歴史群像より)


ケイポール製品の詳細に付いては「ケイポール商品」で御覧ください。


このコーナーのご意見・評論はrun@k-pole.co.jp までヨロシク!