あたまの休息所
第七話  2000.2.5

長期間お休みを頂いておりました。

昨年5月以来の新作です。

暖冬傾向のこの冬、されど冬。これからの花便りを日一日と待ちわびる時期です。

これから春に向かって寒暖の差に体調がついて行かない、風邪も流行っている、注意して睡眠を取り万全に心がけましょう。

今回は今年からのNHK大河ドラマ「葵」(徳川三代)に興味があり、色々な事柄を調べたいと思っております。

とりあえず第七話では、物語の冒頭の関ケ原と秀忠に付いての関係を史実を元に考えてみましょう。


「関ヶ原合戦」については皆さんご存知の事と思いますが、あらためて言えば、石田三成の西軍と、徳川家康の東軍が秀吉亡き後、石田三成中心の豊臣政治か、徳川家康の政治かを決めた戦いです。

しかしその舞台裏は現代に負けず劣らずの情報合戦であります。もちろん現代のように通信手段などないに等しい状況でありますが、それでも現代と同じ位の情報駆け引きが行われていた。


「関ヶ原合戦」ののち、徳川秀忠は父の家康からこっぴどく叱責された。

それというのも、秀忠は軍勢をひきいながら決戦にまにあわなかったからだ。秀忠はどこでなにをしていたのだろうか。

慶長五年(1600)六月十八日、家康は会津の上杉景勝に謀叛の疑いがあるとして、討伐するために伏見城から出陣した。下野小山(栃木県小山市)の本陣に着いたのは七月二十四日だが、翌日、家康のもとに「石田三成が挙兵」との知らせがとどく。

家康はさっそく諸大名を集めて軍議を開き、二十六日には陣を払って軍勢を西へ反転させた。このとき、二十二歳の秀忠は三万八千の軍勢をひきい、宇都宮にいたが、彼も家康の命を受け、中仙道を西に急いだ。

家康は東海道を進み、美濃(岐阜県南部)で合流することになっていた。

九月二日、秀忠の軍勢が小諸城(長野県小諸市)に着く。小諸城主は徳川方の仙石秀久だが、近くには秀吉に仕えた武将真田昌幸の上田城(長野県上田市)がある。

秀忠は使者を派遣し、城を明渡すよう求めた。

昌幸は降伏開城を承知したものの、なかなか実行しようとしない。昌幸は秀忠の大軍を決戦に参加させまいとして、時間をかせぎながら秀忠を釘づけにしたのである。

上田城を取るかどうかは、天下分け目の決戦にさほどの影響はない。むしろ西へ急ぐべきだったのだが、秀忠は九月八日、むきになって総攻撃を仕かけた。

しかし真田昌幸とその子幸村は、名うての戦術家である。将兵を城外に出して挑発するなど、秀忠勢を撹乱して悩ませた。

大軍の秀忠軍が攻めると少数の真田軍は逃げる。大軍は追撃するが、別の潜んでいた真田軍が迎え撃つ。地の利を得た巧妙なゲリラ戦法を展開し、秀忠軍はそれに振り回され混乱した。

真田軍は二千五百と、秀忠軍の十分の一もないのに、秀忠軍は上田城を攻略できぬまま、いたずらに日数を浪費するばかりだった。

そのうちに秀忠にたいして、「上田城のような小塁に何日も費やしているのでは、まったく益がない。上方の敵を討つことこそ急務ではあるまいか」と諫言する者が出てきた。そればかりか、家康からも「急ぎ西上せよ」と、催促してくる。

秀忠はようやく上田城攻めをあきらめ、九月十一日に小諸城を出発した。真田父子の策略によって、秀忠は貴重な一週間を無駄にしたわけである。

遅れを取り戻そうと、秀忠は先を急いだ。しかし秀忠は関ヶ原の決戦にまにあわなかった。 家康ひきいる東軍七万五千と、石田三成を中心とする西軍八万余が、関ヶ原で激突したのは、九月十五日の午前八時。戦いは一進一退を繰り返したが、正午すぎ、西軍として参戦していた小早川秀秋が東軍に寝返ったのを機に、西軍が総崩れとなってしまった。

こうして午後四時頃には、すべての戦闘が終わった。秀忠が家康ひきいる東軍の大勝利で決着がついたと知ったのは、翌十六日、木曾山中での事だった。

秀忠にしてみれば大失態で、家康に顔向けができない。はるか関ヶ原の空を眺めながら、悔しさに歯がみする思いだったろう。

何事も情報収集・読みの極意か!


以上、最近戦術(名将の駆け引き等)を気にしだした小生です、やはり今の時代、読み特に先読みの術を身につけたいです。

以上新たな事柄につづく

参考・引用(JR誌)

 


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