あたまの休息所

第十九話  2002.5.1

GWですね!今年は花の咲く時期が早いので、もうつつじが満開です。私事ですが私用と公用で息つく暇も無くバタバタとしておりました。「ザッ学」も面白いテーマをと考えておりますが・・・・・。現在宇宙写真にハマッテます。写真の記載は重いし問題も・・・・、でもすばらしいのが一杯あるのですが次回機会があれば是非紹介したとおもいます。

今回はいつもの日本歴史を少し。

 


前田氏の発祥地を尾張国前田村とする説もあるが、元来の発祥地は美濃国安八郡前田である。のち尾張の荒子に移ったもので、前田から荒子はの移住がいつごろなのかは明かにされていない。 とにかく、前田氏初期の歴史は不明なところが多く、利家の父利昌以前は不明である。おそらく荒子の土豪として、記録などに残されることもなかったのであろう。このことからも、菅原道真後裔説が完全な伝説であることが知られる。

前田氏が菅原氏を称するようになったのは江戸時代初期で、それまでは平氏を称したり源氏を称したりしている。とにかく前田氏初期の歴史は不明なところが多く、利家の父利昌以前については不明である。 

「傾く(かぶく)」とは、異風の形を好み、異様なる振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。 前田氏 梅 鉢(菅家流か?)  前田氏は菅原道真の後裔といわれ、菅原氏を称しているが、これは前田氏自信がそう考えているだけであって、歴史的事実とはいいがたいようだ。

尾張海東郡荒子城主前田利昌の四男。前田氏は筆頭家老の林秀貞の寄騎だったらしい。

1551年、十四才より小姓として信長に仕える。

1552年、清洲織田家(信長の主筋)の家宰、坂井大膳らとの萱津の戦いで初陣、

1556年の稲生の戦い、1558年の浮野の戦いにも従軍した。  しかし、その後同朋衆の十阿弥を斬殺し、信長の勘気に触れ勘当された。

1560年の桶狭間の戦いで首三つを取ったものの許されなかったが、

1561年の西美濃・森部の戦いで豪傑足立六兵衛の首を取り、信長から赦免された。永禄年間に設けられた母衣衆に選抜され、赤母衣衆の筆頭とされた。佐々成政と同様、以後信長の戦いに常に従軍し、信長の馬廻りとして旗本を固めていた。

1569年、信長の命により前田家の家督を相続し、荒子城主となった。前田家は長兄利久が既に父利昌から家督を受け継いでいたが、病弱であった。信長の実力主義を垣間みることが出来る。  

1575年9月、越前一向一揆を討伐後、信長は利家、佐々成政、不破光治を府中城に置き、越前の今立・南条の二郡を与えた。利家ら三名は、越前八郡中四郡を与えられた柴田勝家の目付を言い渡されるが、軍事的には寄騎として勝家軍団の一翼を担うこととなった。

二郡内の行政面で目に付くことは、織田大明神社(剣神社)以外の寺社領を没収したことが挙げられる。  以後の戦歴は次の通り。

手取川の戦い(1577.9.23.)、有岡城攻め(1579.3.7.〜4.7.)、三木城攻め(1578.4.8.〜30.)、加賀、能登、及び越中の一部の平定戦(1580.閏3.〜11.)。有岡城攻め、三木城攻め、及び荒木一族の処刑奉行(1578.3〜12.)は勝家と別行動で越前衆が畿内、播磨を転戦した。これは上杉謙信が1577年3月に病没した上家督争い(御館の乱)が生じ、北陸方面の脅威が去ったためであると考えられる。  

1581年2月28日、天覧の馬揃えに越前衆として参加。3月6日、越中に上杉景勝が侵攻、同時に加賀で一向一揆が発生したため3月15日に京から帰国した。帰国までに景勝は越後へ兵を引いたため正面衝突には至らなかった。  

1581年10月2日、信長より朱印状にて能登一国を与えられた(一職支配)。

1576年から能登にて信長派として孤軍奮闘していた旧畠山守護家の重臣、長連竜は利家の寄騎として以後働くことになる。連竜は翌年5月に利家が越中攻めで能登不在の間、能登内の上杉勢力を一掃している。  

1582年3月11日、信長の武田攻めが失敗に終わったとの噂を受け、富山城の神保長住が上杉派の重臣らに富山城から追放される事件が勃発した。利家は勝家、成政、佐久間盛政らと富山城を囲みすぐさま奪回した。越前衆はそのまま東進し、上杉方の魚津、松倉両城を囲み、魚津城を攻め落とす。全軍が松倉城に集結した時に、本能寺の変報がもたらされた。

 変報後、勝家のみが畿内に向かうこととなり、成政は越中、利家、盛政は能登へ引くことになった。能登国内では、上杉の後押しを受けた畠山旧臣の温井景隆、三宅長盛らが6月下旬に反旗を翻した。

7月下旬に利家は盛政の援助を受け、温井、三宅を討伐した(荒山合戦)。  以後、賎ヶ岳の戦いで勝家への裏切りとも言える戦線離脱、勝家の居城北庄攻めの参加と、急速に羽柴秀吉に接近していく。勝家の死後に加賀二郡、成政征伐後に越中三郡を秀吉から貰い受ける。官位も急速に累進し、最終的には従二位権大納言にまで昇った。秀吉の死後、秀頼の傅役となり大坂城に入ったが、家康の不穏な動きが出てきた頃没した。  

利家のあとは長男の利長が継ぎ、関ヶ原合戦には東軍に属し、加賀・能登・越中三ケ国百万石の大大名として北陸に君臨することになった。 戦国時代、織田氏に仕えた玄以を出したもう一家の前田氏がある。藤原利仁流というが、これも史料はあるわけではない。

秀吉の死後、家康が急速に支配力を増していった頃、反家康派の本当の頼みの綱は利家ではなかったのでしょうか。 

歴史の流れは家康派・反家康派というだけにとどまらず、文吏・武闘派など様々な利害関係から関ヶ原の戦いへと導かれていきました。 

利家がもう少し長生きをし、反家康派・秀吉恩顧大名を糾合しておれば、また違った展開になったのかもしれません。  

政治力・戦術戦略・調略技術、それらすべてに家康を下回るかもしれないが、人を統合しうる人望はあったのではないかと思う。  

先のエピソードで信長の怒りを買い追放されたとき、それまで親しかった知人は誰も利家の元へ寄らなくなったという。 

柴田勝家と森可成、その他数人のみが、かわらなく訪れてくれて有り難く思うと共に、人間は窮地に追い込まれないと真の友人とのつき合いが解らないと悟った。

 

それゆえ、人と人とのつき合い、絆を大切にしたのではないだろうか。

それが、信頼を産み、人望となり、加賀百万石へと導いていったのではないだろうか。

人と人、人間と人間、時(みち)と人生(みち)、複雑なのが人!だから悪いだから良い!  藤見    

 


以上新たな事柄につづく 株式


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