あたまの休息所

第十八話  2002.3.4

常日頃日本史の事実について(特に室町時代から江戸前期時代にかけて)興味があり、色々な書を読みあさっております。

今月自宅の近くの知人から、古代史についての書を頂きました。

自ら書かれた物ですが、「住居地の古代を考える」といった視点には「なるほど」と関心し、又「よく調べているな」と又関心しました。

小生も少しは曽我氏・聖徳太子等に興味があるので、ご本人の許可を得ましたので、是非紹介したいと思います。

ただ長いのでプリントでお読まれる事をお勧めします。なかなかのもので、素晴らしいですから。

又、著者の山川 薫 の「かおるさんのホームページ」 http://www4.justnet.ne.jp/~kaoru327.ynet.or.jp/でなかなか凝ったページです。

幅広く楽しいですから是非見て下さい。

 


高井田台周辺の古代史に挑戦    

「柏原の古代寺院に挑戦」  

自分の住んでいる地域はどのような歴史を経過してできたのか知りたいものである。どんな人々が、泣き笑い悲しみ喜びそこで生活していたのか。また、その風土で生活するために、何を考え生きてきたのか。またどのような伝説や言い伝えが残っているのか。今自分がそこに住んでいて、先人達の知恵や歴史を知ってみたいと思う。それは現代そこに住む我々に、何かを教えてくれるものであると思う。 同じ地域に住んで同じ風土でどのようなことを考えていたのか。しかし、やはり古代史の時代になると自分の住んでいる地域でも曖昧になってくる。過去に自分の都合の悪い歴史を消し現人神になった天武天皇もいた。調べ上げることは困難きわまりない。 しかし、できる限りいろいろな手段を用いて、自分自身の住んでいる土地の事件やできごとを調べていきたいと思う。

私の住んでいるところは大阪府柏原市高井田というところである。 この地域でもっとも有名なのは、古墳時代高井田の横穴式石室に多く残る線刻画であろう。今は柏原市の古墳公園に、多く残っているが、そのうちのいくつかに、5世紀あたりの古墳時代の線刻画が古代人達の姿を生き生きと描かれている。 これらは線刻画であるが、きわめて鮮明に古墳時代の生活の様子を、描いてある。わたしが、その中で印象に残ったものをいくつか上げてみよう。

近くを大和川が流れているが、船に乗って、何かを郵送している生き生きとした古代人の姿が描かれている。大和川の水運を利用して、このあたりの運送業を引き受けていたに違いない。この豪族は商業を営んでいたに違いない。元来この地域では、太子町側には、渡来系の聖徳太子時代最大の豪族である蘇我氏一族が住居を構えていた一須賀古墳群がある。

また八尾市側には、物部氏の本宗家が、住んでいた地域である。まわりは大豪族が住んでいた地域であるが、柏原市は、生駒山の山麓を中心にしてどうも渡来系の種族が、大陸や朝鮮半島から移り住んできたであろうと思われる。神社も青谷の金山彦神社や大県地区には、驚くべきタタラの跡がある。製鉄技術が、ここには伝わっていた。他にも、技術集団は多く住んでいたであろうと思われる。少なくとも、製鉄技術をもった渡来人達がこのあたりに住んでいたに違いない。

最先端の文化が、この地に結集していたといってよい。当時の最先端の文化といえば、製鉄だけでなくそれを代表するものは、仏教であった。古代豪族達は、この進んだ文化である仏教を進んで取り入れようとした。

神道の代表者であるとされる物部氏も八尾の渋川に渋川寺(現在渋川神社)に寺院を建立していた事実がある。今で言えば、仏教はインターネットのような最先端技術というか文化であったに違いない。大陸との文化の交流があって時代が変わってくるのである。柏原市の大和川流域山沿いの地域には、すでに飛鳥時代には、文化の象徴である古代寺院河内六寺が、すばらしい景観とともに建てられていた。また、奈良の平城宮から難波の宮(現在大阪城付近)を結ぶ交通の要所として竜田道があった。この竜田道は旧大和川沿いにあったものと考えられている。北から続く生駒山地が切れて大阪平野に開けるところに竜田道の山側に古代寺院は存在した。五重塔をもち大きな大伽藍が林立するような壮大なながめてある。

また、平城宮から難波宮まで竜田道、渋川道を通って1泊2日の行程であった。その一泊の宿に竹原井頓宮(離宮)が柏原市青谷に建設されていたことが発掘調査でわかった。大和川が大きく蛇行する対岸には、聖武天皇が詔を発して造営した、国分寺跡がある。737年(天平9)聖武天皇の「国ごとに釈迦仏像一躯(く)・挟侍菩薩(きょうじぼさつ)二躯をつくり、兼ねて大般若経(だいはんにゃきょう)一部を写さしめよ」の発願(ほつがん)で構想がかたまったと思われる。

740年6月には法華経10部の書写と七重塔1区の建立、9月には観音像1体・観音経10巻の書写が命じられている。 つづく741年のいわゆる国分寺建立の詔(みことのり)は、七重塔と最勝王経・法華経各10部の書写を重ねて命令し、建立をうながしたものである。玄ム(げんぼう)がとりあげたものらしい。国分寺の建立は、天武朝(673〜686)以来の仏教の護国経典によって国家の平和をはかったものだが、さしあたっては天然痘などの流行や飢饉、藤原広嗣の乱(740年)などの災異をはらうのが目的だった。

756年(天平勝宝8)までに26カ国が形をととのえ、奈良末期にはほぼ全国にそろった。しかし律令体制がおとろえると国分寺経営もかたむく。それにともない仕事内容を国庁・定額寺(じょうがくじ)にうばわれ、存在価値をうしなって10世紀前半にはくちはてた。

対岸にある竹原井頓宮は、かなり立派な建物であったらしい。難波の宮に大陸の使者達が到着し、難波の宮でもてなした後、平城宮にはいるまでの迎賓館が竹原井離宮であった。大和川の亀の瀬からもっとも、すばらしい景観を示すところに天皇家はもとより、国賓クラスが宿泊できる施設があった。もう少しいい発掘調査の結果を待って調べてみないとわからないが、竹原井という迎賓館があった地域とは別に、孝謙天皇や聖武天皇が滞在したという行宮は、続日本紀によると知識寺の南という。青谷の竹原井頓宮は、少し知識寺の南からはずれている。というよりも距離がありすぎる。またこの地域の新たな発掘が、あって私が予想するに竹原井頓宮は、かなり大規模なものではなかったのかなとおもう。平城宮から平安宮に遷都されて、竹原井頓宮は使命を失ったが、「続日本紀」によると、「戊申、行幸難波、是日、至河内国、御知識寺南行宮、巳酉、天皇幸知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂等六寺礼仏」これは孝謙天皇が756年に、難波の宮に行幸したときのものである。

その六つの寺の中で今回は2つ知識寺と鳥坂寺を取り上げてみよう。

知識寺というのは、現太平寺地区にあった寺である。太平寺の名前が示すとおり、飛鳥時代に聖徳太子が建立したという。その後に地元の人々によって、知識寺が建立された。知識というのは人々の知識であるという。私は最初、有力豪族による建立であると思っていた。ところがこの寺は官寺でもなければ、有力豪族のを氏寺でも何でもない。 では、氏寺としての性格を持たない寺院がどのようにして造られたのかが、問題である。 これらの寺はこのあたりに住んだ渡来系の人々によって民間人による寺である。このあたりの人は昔から文化程度も高く、日本に製鉄技術や仏教文化を伝えた渡来人であろう。その人々は奈良の飛鳥を遠つ飛鳥と呼び、この柏原、太子町あたりを近つ飛鳥とよんだ。飛鳥とは朝鮮語でアスク(安宿)私のふるさとだという意味である。そして、聖武天皇もこの寺に、何度か訪れている。そしてあの東大寺の大仏のモデルになった大きな仏像が、塑像としてこのこの知識寺に存在した。塑(そ)像であるから土でできていた。シルクロードのトルファンや楼蘭には、大きな彫刻の石仏があるが、少し作り方は違うが、あのようなものであった。

「河内の国、大県群の知識寺に坐します廬舎那仏を、礼み奉りてすなわち朕も造りたてまつらんと欲し、、」 と聖武天皇は、述べている。

(続日本紀) 東大寺の大仏完成後は、和太(大和太郎)とよばれた。また、知識寺の大仏は河二(河内二郎)とよばれ、親しまれたようである。聖武天皇や娘である孝謙天皇は、難波の宮への行幸の際は知識寺に寄られていたようである。この知識寺の大仏は、どのようなもので構成されていたかというと、扶桑略記には、河内大仏は、「捻像」であったと書いてある。いま知識寺の大仏は、どこを探しても見つからない。前述の扶桑略記によると1086年平安時代知識寺伽藍と倒壊時に大仏もろとも粉々にくずれてしまったとしている。くずれてもなお現在の柏原市太平寺付近は、本当に聖域であると思う。いつ訪れても暖かい感じがする。聖武天皇が、鎮護国家のために何度も足を運んで奈良の大仏を製作した。河内二郎の名前は、崩れてもなお伝わっている。河内二郎は、土となってもなお、鎮護国家を願っているようである。

 大仏のあった知識寺は、寛政2年の村絵図などから東塔、西塔、中門の位置を確認することができた。2つの塔を持つ薬師寺形式の伽藍配置であったと推定されている。  昭和55年大阪府教育委員会によって東塔の位置と基壇は確認されたようである。 この東塔の心柱礎石が、近くの石(いわ)神社に移され、現在神社の入り口に見ることができる。これらのことから、かなり立派な建築物であったことは間違いない。 また天平勝宝元年の孝謙天皇が、知識寺にやってきたときにその邸宅を宿舎(行宮)に提供した茨田宿斑弓束女の屋敷が安堂にあったと推定されているが、このような渡来人の有力者が、この寺を建立したのではないかと思えるのである。その地からやく500m南にいくと家原寺(安堂廃寺)があったようである。昭和59年の発掘調査によると、もうすでに伽藍の形式はとどめて無く、地下から大量の瓦や鬼瓦が発見されている。瓦の調査によると奈良大安寺形式のものと見られる。7世紀後半から8世紀にかけての建立であったものと思われる。

私たちの住んでいる柏原の高井田には、さらにそれらを上回る大寺院があったとされている。大和川と平行して国道25号線,JR大和路線が走っているが、JRよりも山側に天湯川田神社がある。鳥取氏の氏上であると伝えられている。その鳥取氏の氏寺が奈良時代にこの地に建立されていた。昭和36,7年の発掘調査においてこの鳥坂寺は、ほぼ全貌が明らかになった。現在天湯川田神社の所に塔が立っていたという表示がある。塔の基壇は、約9メートル四方、塔の心礎柱穴の直径は、約五十pで、中央部分に、ほぼ円錐形の舎利孔(釈迦の遺骨を収納する)がある。近鉄大阪線の線路を挟んでサンヒル柏原の所まで金堂、講堂などが広範囲で、地形の制約を受けているので、かなり変形した四天王寺形式であるとされている。寺域の中から高さ1.3mもある巨大な鴟尾(しび)が出土している。サンヒル沿いの道路から見ると葡萄畑の中にこんもりと盛り上がった箇所がある。これは金堂の基壇である。この金堂は、発掘調査によると、正面五間×奥行き四間の三間三面堂幅約二十メートル、奥行き約16メートル、高さ約、二十メートル、三重の塔があったと推定されている。今でも瓦の破片らしいものが、落ちている。鳥坂寺の金堂は、当麻寺の金堂によく似た建物である。高井田第2公園付近は、僧坊や食堂跡が発掘されており、この付近の井戸跡から「鳥坂寺」と墨書きされた土器が出土した。現在高井田台の住宅がある付近は、平城京と難波の宮を結ぶ竜田越えの街道沿いにあり、古代寺院、高井田群集古墳が点在する地域である。

大和川の亀の瀬からの渓谷から開けたところにあり、交通、軍事的にも要所である。だからこのあたりに大寺院が建設された。驚くことは、これらの古代寺院は民間レベルで建設されたのである。外国の人々にも、日本の人々にも、この国は仏教文化を取り入れた国だということを知らしめるためである。またはこの当時の政治的に有力な古代人がこの地に住んだということでもある。 この地から大和川を渡って、すぐの田辺の地域では、田辺史(たなべのふひと)とよばれる豪族が住んでいたところである。このひとは藤原鎌足につかえた有力な豪族である。鎌足の息子の藤原不比等(ふじわらふひと)は、不比等は並ぶものがないという大胆な名前だが、実はその不比等の養育係に当たった豪族である。田辺史のふひと名をもらったものである。藤原不比等は、大宝律令をまとめるなど、中央集権の律令国家を造る上で大いなる貢献をし、平安時代における藤原氏の政治独占をやってのける基礎を造った人物でもある。藤原氏が、道長や頼道の時に摂関政治において頂点を極めるが、その始祖が鎌足であり、そして不比等である。 藤原不比等が幼少の頃、このあたり柏原の田辺地区で育ったということである。大和川の水運があり、大陸の情報などをしり、豊かな教養を身につけ、律令国家を建設していったに違いない。その活躍の舞台の中心が、田辺寺跡である。今は田辺神社境内にその基壇が残っている。昭和46年に発掘調査された。

 このように柏原の地域には、古代寺院が、奈良時代には多く建てられていた。現代において寺院は、先祖の菩提を弔う役割しかなしていないイメージを持つが、この当時、2つの塔、金堂、講堂を持つ寺院は、文化の象徴であり、地域社会の中心であった。寺院において死後の世界、生まれる前の世界の哲学、倫理、道徳学が教えられ、病気を治す医学が施され、簡単な村々の争いごとが裁かれていた。仏教という信仰を中心にして地域行政のよりどころでもあった。

マスメディアの発達によって精神的文化のよりどころを失った現代人よりは、はるかに古代人は物質的には貧しかったかもしれないが、精神的には、豊かであったと思われる。 この地域に住む豪族達はこぞって寺院を建立した理由がここにある。

あの神道派で知られ、蘇我馬子と天下政治の覇権を争った物部守屋でさえも、八尾市渋川に現在、渋川神社のあたりに渋川寺を建立した事実がある。もっとも守屋は、仏教というよりも、大陸の医学、倫理学、哲学などの文化に興味があったのではなかったかと思う。  

聖徳太子が建立したという寺院はこのあたりでは数え切れない。聖徳太子の目指した国家とは、精神的に豊かな国家であったに違いない。また、天然痘の流行る物質的に貧しい時代に多くの国費を費やして大仏を建設した聖武天皇や貧しい人々に人々に慈悲の施しをしながら大仏を建設をした行基は、少なくとも現代人よりは、先見性があり精神的な支柱を持っていたに違いない。

 表面的にまた物質的に満たされている現代人は、古代人に今こそ学ばなければならないと私は思う。情報化時代でいろいろな情報が、テレビ、新聞のマスコミまたインターネットから氾濫している。もう一度、人類が、本当に自分たちの目指す幸せを考えなければいけない時代になっている。

アメリカの同時テロや教育大池田小学校の殺傷事件など殺伐とした事件が続く現代、数年前、奈良県明日香村の飛鳥寺を生徒を引率し訪れたときにその住職が、仏像に祈っておられた内容を私の小耳に入ってきた。

「この子達がまっすぐな、よい子に成長し、世の中の役に立つように、そして世界が平和でありますように」

小さな声の祈りだが、私の心には大きく響いた。この住職は、本当に心から念じておられる。住職には日本とか国家とかとか枠がなかった。仏教がすべてではないが、いま私たちは、考えなければならないところに来ている。

高井田台周辺 柏原の古代寺院に挑戦 終わり

       参考文献 「山 川 薫 著 大阪府柏原市高井田在住」

 


以上新たな事柄につづく 株式


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